ガム飲んじゃう。

3人の管理人による自由で変なブログ

私のための私【村長】

こんにちは!

わたくし村長、人生の中で
大切にしてるモットーが
いくつかあります


まあ、至って単純なものです。
例えば
・ありがとう・ごめんなさいを言える人間になる
・経験したり見ていないものを無闇に否定しない
・人の作ったご飯を食べたらおいしいとか何でもいいので感想を言う


他人から見れば取るに足らないものですが
みなさんにもこういう生きる指針、自分の価値観みたいなものあるでしょう?
もしくはプライドと言ってもいいかもしれない。



そういった指針の中で
私が一番重要視してるのが
「超客観的な意見を持つ」という事。


なぜ「超」がつくかと言えば
ただ客観的に物事を見るんじゃなくて
当事者や他人
それだけでなく何も関係のない神のような極限の第三者的なあらゆる視点から見ることです。


もし凶悪な殺人事件が起きたとして
それを無骨なテレビの画面から見るだけでなくて

被害者
加害者
彼らの家族
時代の潮流
法律
倫理・道徳
そして何も知らない絶対的な俯瞰の第三者

出来る限り多様な視点で
物事を見つめることを心がけています



持論ですが、この世に「意見」や「思想」なんてものはないと思うのです。

人間それぞれが持ってるのは
みんな違った「視点」と「立場」。

それが違うから思想が変わるのです


きっと私が嫌いな誰かも
許容できないあの人も
私がその人と同じ教育と経験をしたら
そのように歪んだり、間違ったり、人と違ったりしてしまうのではないのか?
と、まあそういう風な考えなのですよ。

だからこそ
事象を正確に捉えるために
多様な視点で物事を見て
うまく理解するように努めてますし
それこそ最も冴えたやり方だと私は思うのです。


「多様性」へ手を伸ばすことこそが
その物事の理解をより深くするのではないのか、と。

社会を動かす大事件から
身内のしょうもない人間関係まで
こういう考えの下、行動したり相談相手にアドバイスをしてきたつもりです

いや、もはや癖ですね。
思考パターン。


と、まあ少し前置きが長くなったんですけれども
話は逸れて関係のない話に移ります


私は「古典」文学を読むときに
偉い人や著名な研究者の作品紹介を知りたいなあ
と思うのですよ。
その作品が当時
何故、ウケたのか
どうして、面白いのか
時代の何を反映してるからこそ重要な作品として地位を占めているのか


これがわかれば深く理解して作品を読むことができますし、読んでいて楽しいと思ったのです 。

つまり他人の考えを知ってから、作品を読むということです。
あくまで古典の文学ですよ?


作品の背景がわかればもっと面白そうじゃないですか!

で、それを文学の教授に言っていたら

「それはよくない。君は作品を読むときにガイドラインを必要としているようだけど、一番重要なのは原文のテクストを読んだときに、君が何を考えるか、だよ。論文なんて読んだって何にも楽しくないじゃないか」

ハッと気付かされました…
青天の霹靂とは言いませんが、強い衝撃でした



そうか
私は、多様な視点で物事を見ることが一番優れてると思ってそれを実践してきたにも関わらず
「自分の意見を大切にする」という当たり前のことを忘れていたんだな。



私が生まれる何十年も前から
私より何十倍も頭のいい人によって
研究されている作品であっても
素人の自分がどう思うか、ということこそが
誰にも考えつかないオリジナリティのある
作品の解釈への新しい扉を開くのですね…。


と、最近考えを改めた次第です。


外部にある多様性と共に
自分の内面を見つめる…


いくら僕らは上手に誰かの物真似が出来ても
その人自身には決してなれないのだから。

そして逆説的に、誰であっても
私自身になることは出来ないのだから。

それなら、自分を一番よく知っている自分くらいは
自分のことを大切にしてあげなきゃダメですね