「頭を使う」とは何なのか【畑山】
こんばんは。畑山です。
風邪をひいて床に臥しております。久しぶりに38.7度出してしまいました。
鼻をかみすぎて穴と穴の境(正式名称が分かりません)がカピカピです。
最近の暇つぶしは映画と読書です。と言ってもそこまで肩を入れてません。
今は羽田圭介氏の『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』を読み進めている最中で、仕事の休憩時間に読める手軽さがありがたいです。
ひとつ困ってる点を挙げるとすれば、表紙デザインが怖いという事です。ビビりなので真昼の日差しが強い会社の中でしか読めないのが悲しいですね。
寝る前に次の日必要なものを揃える際、仄暗いバッグの底からぼんやり表紙が見える恐ろしさ。これには割と困っています。
これからも少しずつ昼間に読んでいく次第です。
前回のブログでもお話ししましたが、大きな仕事が終わってひと段落したので、自分の時間が増えました。
その時間を趣味の映画鑑賞とか、今まで挑戦した事のない読書に割いています。
例えば、大学受験勉強の古文でよく出てくる『源氏物語』って、内容を熟知していますか?
これ、聞かれるとなかなか答えられないはずなんですよね。実際今もよく分からないんですけども。
古文のド定番だから読んでおいても損はないんじゃないかと思って、『ブッタとシッタカブッタ』の作者である小泉吉宏氏の『まろ、ん? 大摑源氏物語』という作品を3週間くらい前に読みました。
こちらの作品、おそらく中高生の方なら古文の先生なんかに勧められたりしていると思うんですが、あの長い源氏物語を一冊に、しかも漫画で解説しているんです。
玉のような美男子の光源氏がイケメンのかけらもない栗として描かれています。あと情事シーンが栗のくせに所々あります。栗のくせに。
「大摑」なので、物語の大まかな流れを掴むには最適ですが、全部読んでも源氏物語に対する知識は広がりませんでした。既習内容を補強したって感じですね。
このように名前は知ってるけど内容はあまり知らない作品に触れたりしています。
ここからがタイトルに関する話です。長ったらしい前置きですみません。
『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』や『まろ、ん?』のようなチョイスをしているのですが、先日知り合いから、
「どうして頭を使わないような作品ばかり選んでいるの?」
と言われてしまいました。一体「頭を使わない」とは何なのでしょうか?
羽田氏や小泉氏の作品に対してそう言っているのであれば、大変失礼なんじゃないでしょうか。
では逆に「頭を使う」作品とはどのようなものなのでしょう。谷崎潤一郎作品を読めば頭を使っている事になるのでしょうか。
自分にとっての読書とは、単純に本を読む機会を増やすためのものです。
もちろん読書を通して文章構成を理解を深めたり、語彙力を増やす目的もありますが、どんな作品でも学べる事はたくさんあります。
おそらくこういう事を自分に言ってきた人にとって、読書とはまさに文豪と呼ばれてきた人の作品を指しているんだと思います。内容が難しいから頭を働かせて自分なりに解釈しているに過ぎないんです。
それを「頭を使って読んだ!」と思い込み、サクサク読める作品を「頭を使わない作品だ!」とバカにするのは実におかしな話です。サクサク読めたらダメなんですかね?
サクサク読めるような文章構成をしてくれているかも知れませんし、本来であれば熟語で説明がつくシーンも分かりやすい言葉で表現しているのかも知れません。
自分の思っている通りに読者にも想像してもらうのってかなり難しいんです。それをやってのけるのが書き手です。だから凄いんです。
「小難しい作品を読まないと読書とは言えない」みたいな事に囚われていたら、読書なんて楽しめないですよね。何にしても楽しむ。これが一番です。
だからこれからも読書は続けていくつもりですし、いろんな作品を読んでいきます。自分が「したい・やりたい」と思った物事にも本能のままに取り組んでいきます。
じゃないと人生楽しくないですから。気の向くままに動いていきます。