ガム飲んじゃう。

3人の管理人による自由で変なブログ

(ネタバレ含む)赤井秀一という人気キャラを無駄にした『名探偵コナン 緋色の弾丸』【畑山】

こんばんは。畑山です。

コロナ禍のゴールデンウィーク(2度目)、いかがお過ごしでしたか?

自分は耐えかねて映画を観に行ってしまいました。

やっぱりゴールデンウィークのお供と言えば名探偵コナンの映画。

1年待ってようやく公開の『緋色の弾丸』ですね。

 

今回は赤井秀一の家族たちが総出とのことで、

赤井の見せ場満載なのかと思っていたのですが…正直赤井居なくても成立したような。

彼はビックリするほど活躍していません。どちらかと言うと置鮎龍太郎のターン。

以下で自分の残念ポイントをまとめます。

 

あまりにもラグがある赤井の見せ場

撃った弾丸が時を経て犯人に当たるのは、「さすがシルバーブレッド!」的な要素でした。

ただ、撃ってから当たるまでに他のシーンでドンチャカしすぎ。場面転換が長すぎると、前の内容が薄れませんか?

銃撃シーンがあっさりした感じだったのも相まって、全くそのすごさが表現できていない。

ふーんさっき撃ったやつが当たったんだ。すごいね。くらいの感想にしかなりませんでした。

もっと良い見せ方があったかもよ?とモヤモヤするところでしたね。

 

結局誰がメインの映画なんだ?

羽田秀吉と世良真純だけ居れば良かったし、なんなら灰原哀メインでも良かった。

灰原の可愛らしさがわりかし出ていたから、彼女のファンは必見だと思う。

世良もハンサムな感じがとても好印象だった。日高のり子の声が可愛い。

タカヤノリコの時から変わらない良さがある。

 

…赤井のシーンについて話を戻そう。

犯人を追うシーンなんて赤井完全にアッシーで、どうしても犯人を追跡したいキャメルを黙らせるくらい。

お得意の截拳道ジークンドー)は相手が妹なので過激にできず。なんで赤井メインの映画なのに舐めプ見せられなきゃならないんだよ。

 

映画におけるメインキャラって、

①コナン

②コナンと連携して危機を乗り越えるキャラ

のどちらかですよね。今作は②なのに、その役割の大半が赤井ではなく世良にありました。

赤井らしさがとことん失われ、他のキャラが赤井より目立ってしまった。一体誰がメインキャラなんだろう。

 

「クエンチ」って難しいだろ

今作のキーワードとなる「クエンチ」。映画観るまで何のことか知りませんでした。というか観ても分かんねえ。

コナンのメインターゲットって子供だよな??子供は今作面白いと思えたのか???

クエンチ

検索候補。分かってない人居るやん。

 

爆破シーンは無いし、今作はいつもと違う感じにしたかったんですかね。

「らああああああああああああああん!!!」

「しんい……………ち…………」

っていうお決まりのやりとりも今回非常に薄かったです。共倒れだと全然胸締め付けられん。

 

やっぱり全年齢楽しむとしたら爆破しかないと思うんです。爆破こそが劇場版名探偵コナンアイデンティティ

爆破がないなら『ゼロの執行人』のようにキャラ人気フル活用に舵を切るべき。それを奪ったら劇場版名探偵コナンたらしめるものが無くなってしまうので。

 

絶望的に東京事変の主題歌が合っていない

これは東京事変の批判ではありません。コナンとアーティスティックなバンドとの親和性が低いということです。

絶対コナンにサカナクションとか合わないじゃないですか。それをやっちまったって話なんですよね。

東京事変というか椎名林檎特有の映画字幕みたいな書体を使っているのも、コナンの世界観を壊しているので相応しくなかったと思います。

福山雅治とかLDH系にやってもらったから、冒険したかったのかもしれない。でも冒険しすぎ。客が劇場版に何を求めているのか考えてほしかった。

 

そんな感じで長くなりましたが、『緋色の弾丸』は個人的にクソ映画でした。

時の過ぎ去る速度が年々早くなる【畑山】

お久しぶりです。畑山です。

年単位で更新が止まって申し訳ありません。

社会のしがない歯車の一部となったことで、なかなかブログを書く機会がありませんでした。

 

最近仕事の関係で知り合った店の旦那さんが、

「文章が書けるってことは武器になるから、時間がなくても毎日書いたほうがいいよ」

と言ってくれたことを機に、また頑張ってみようと思った次第です。

日記を書いてはいるのですが、自分しか見ない文章と他人も見る文章ってやっぱり違くて、前者は支離滅裂なんですよ。自分だけが理解してるから内容が唐突すぎます。

人が見たいと思える文章は、常に人に見せる前提で書かないとダメっぽいです。内に秘めた言葉は自分しか納得させられない。

誰かが「あ、こいつの言ってることわかるなぁ」「畑山の文章なら読んでやるか」って思うような文章が書けるようになりたいです。

 

 

さて、ブログを放置して実に1年以上が経っていたようです。早くね…?

自分が初めて買ったCDって嵐の『WISH』なんですけど、それの通常盤にメンバーのトークが入ってたんですよ(今も入ってるのかは知らん)。

そのトークの中で、誰かが「年月の流れが早くなるのは歳取ってる証拠ってタモさんが言ってた!」的なことを言うんですよ。

当時は「んな訳あるかいな」って思ってたんですけど、今の自分なら言える。マジわかる。光陰矢の如しだからな。

 

幼稚園の時は虫とか植物を見て季節感じてたのに、中高生になってから急に試験で「もう学期末かよ…」とか思うという嫌な季節の感じ方になるんです。

で、社会人になるとそういう区切りのものがなくなる。ただただ週5日仕事をこなし、それを5回繰り返すと1ヶ月が過ぎる。そしてそれを12回やると1年が過ぎる。

そして昨今のコロナ禍です。おうち時間で外に出る機会もなく、季節感がさらにバグりました。

 

あと自分が何歳なのかたまに忘れてしまいます。

親が年齢をすぐに答えられない時があり、それに対しても「んな訳あるかいな」と思っていましたが、これも今ならわかる。忘れるわ。

年齢なんて今となってはどうでもいい。誕生日なんて記念すべきことでも何でもなくなる。

歳を取ると、記念日だろうとなかろうと、毎日が365(366)日のうちの1日でしかなくなりました。

 

これが老いるということなんでしょうか。だとしたら自分は老いたくなかった。巡る季節と毎年やってくる誕生日を、毎度新鮮な気持ちで感じたかったです。

そんなことを毎週の楽しみだった『天国と地獄』の最終回を見終わって思いました。ドラマ基準で1週間把握してたから曜日感覚狂うなぁ。

映画観すぎて感想をいちいち書き留められない【畑山】

こんばんは、畑山です。お久しぶりです。

現役で子供部屋の住人やってます。最近は飼い犬が部分的にハゲてきて、落ちた毛が部屋に散乱するので困っています。

 

前回の更新から大分時間が経っていますね。その間に色々あって疲弊していました。

自分の関心がある領域にやや満足というか、「こんなもんか」と軽蔑気味になってしまい、もう好きなことは趣味でやっていこうと思うようになりました。

次からは仕事は仕事として割り切ってやっていこうかなと決意した次第であります。

この辺りの話は、もう少し時間が経って自分の意見がまとまったらボカしてお伝えしようかなと考えています。

 

本題に入りますが、前の更新から今日に至るまで、そこそこの数の映画を観ました。

と言っても何百本!ではなく、自分の人生の中で最高頻度で観ている訳でして。他の映画好きの方には遠く及びません。

以前から「ざっくり感想」として観た映画の感想を書いていましたが、ざっくりも書けないほどだったのでSNSに写真だけ掲載していました。

しかし…写真だけだと自分で見返した時に全然ピンとこないんですよ。感動とか衝撃がボヤけるんです。「この映画観たな〜」ぐらいしか思い出せないんですね。

思いや感動を文字にするって本当に大切なんだと痛感しました。より自己満足するには、より具に記憶を書き留めないといけなかったんです。

ただ単にその時の感動を衝動的に書いていると自分では思っていたので、ここまで役に立つとは考えもしなかったですね。

 

今は映画史の勉強をやり直しています。この前CS放送で『國民の創生』やっててビックリしましたよ。

 

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『ブラック・クランズマン』観た方や、歴史にお詳しい方ならご存知かと思いますが、これってKKKのバイブルみたいな作品なんですよね。だから内容的に良いとは思えませんでした。

また、映画の歴史からすると非常に重要な作品なんですが、飛躍的に進歩した現代の映画を観る自分たちからすると、どこに価値があるのか見えて来ないという問題が起きます。現に自分も、撮影技法が現代よりも劣っていて観るに耐えないなと思ってしまいました。

だから倍速で観て、「なんだこの映画…これがなんで評価されてるんだよ」と自分の中で酷評してしまったのです。でも現代映画だけ齧った人間が映画を語ったり鑑賞したりするのは、あまりにも幼稚で浅はかだなとすぐに自省しました。

グリフィスは偉大な功績を成し遂げたというのに、現代の観点から見ただけで粗悪と勝手に判断されるのはどうなのでしょう。「たわけ!映画の歩みを知らぬ小童が!」とかラオウに言われそうじゃないですか?

こんなに有名な『國民の創生』は映像も内容もお粗末、なんて自分の中で安易に結論づけるのは如何なものかと思い、映画史を再勉強することにしました。

 

今話題の『ジョーカー』には、グリフィスの『散りゆく花』のオマージュがあるとSNSで聞きました。色んな時代の色んな映画を楽しむことは、現代の映画を一層楽しむためのエッセンスでもありスパイスでもあります。

一本の映画を観るだけでも楽しいですが、映画史・俳優・撮影技法…諸々知っていれば知っているほどさらに楽しい一本になります。美味しい映画をより美味しく食べるかどうかは、鑑賞者の自分たちに委ねられているのです。

深夜のエッセー【村長】

二十歳を越えてからというもの、何かが変わることが、

なんだか恐ろしくなってしまった。

 

昔の本を読み返せば、何とも思わなかったはずの句読点の位置が気に入らない。

 

子供の頃、あれだけ好きだった夏は、今では、晩夏の夕暮れの寂しさばかりが浮かぶ。

 

実家に帰れば、母の手の皺が増えたような気がして、少し切なくて。

 

なんてことのない変化が

少しずつ苦しくなってきた。

 

感情の変化もそうだ。

人に会うことや、アーティストの新曲を聴いたり

好きな監督の映画を見に行くことが

嫌で嫌で仕方ないことがある。

 

確かに、考えを変えてしまうほどの衝撃や作品に出会うことは、とても素晴らしい事だと思うし、

今の自分の考えにプライドを持っているわけでもない。

ただ、その衝撃を受けるという、未来が面倒なのだ。

 

「歳をとると考えが固くなっていくけど、若い人は柔軟だから沢山吸収できるんだ」

そんな話は何度も聞いたことがあるだろう。

あれが本当だと、今さら知った。

 

それでも僕はおそらく若い。

面倒で仕方ないのに

まだ色々な事を諦めていないから

思考とは反対に、その衝撃に心は踊り、こっそり後をついていってしまう。

 

導かれたその先で、いつも思う事は

過去の自分への嫌悪だ。

きっと僕は進化し続けている。

なぜなら、過去が嫌いだからだ。

 

そう、新しい自分になること

これはつまり過去の自分を否定する作業だ。

 

何かを得て、また捨てて、

おそらく成長しているはずの自分。

これ見よがしに、未来に進んでると言わんばかりの他人を横目に見ながら

僕は

この作業をあと何度繰り返すのだろう。

 

 

女が男を殴るのはいけないことなのか?【男らしさ・女らしさとは?】

村長です。男です。

 

ネットを見ていると日本でのLGBT差別への関心は

ここ数年で急激に高くなっていますね。

 

最近だと、某議員の「LGBTは生産性がない。」発言や

テレビでは、イケメンのゲイの方を「ゲイにしておくのはもったいない!」と表現して炎上していました。

(どんなジャンルでも毎日ネットのあちこちで「〇〇炎上!」みたいな記事を見るので、本当に全部炎上なんかしているのかと思ってしまいますがw)

 

つまり日本では、「性」というものへの「多様性」が

認められつつあるわけです。

男は女として生きていいですし、女は女と愛し合ってもいいんです。

 

それでは

 

世界が今、性の多様性を認めてはいるとして

果たして人間は多様性を求めているのか

 

いえ、求めてないですね。

そんなことをしてしまったら、世界は同性愛だらけになって

子供ができず人間は絶滅してしまいます。

 

 

本題に入りますが

今の日本では

男は男性的であることと、女は女性的であること

求められています。

 

男に対しては

弱いよりは強い方を、

なよなよした泣き虫よりは、人を引っ張っていくようなリーダー的存在を

評価する傾向にあり、

これがいわゆる「男らしさ」ですよね。

 

対して「女らしさ」は

淑やかな方をよく指します。

 

果たして

「男らしさ」・「女らしさ」という考え方は差別になるのだろうか。

 


例えば

しばなんチャンネルという、かなり有名な夫婦のYouTubeチャンネルがありまして、

ある動画でゲームアプリの紹介をしていました。

(好きなYouTuberなのでこんな話題で出すのは申し訳ないですが・・・)

 

そこで夫のしばゆーが

そのスマホゲームでせっせとポイントを貯めていたのですが

隣にいた妻のあやなんが勝手にそれを消費した時に

夫のしばゆーが、「おい」と軽くツッコミで妻の頭をパーの手で叩いたんですよ。

 

私は特に何も思わなかったのですが

コメント欄を見てみると

 

おそらく女性の意見で

「女の人の頭を叩いちゃだめだよ!」

「子供の前でお母さんを叩いちゃダメ!〇〇ちゃんもお母さんを叩かれて泣いてるよ!」(妻のあやなんはその時子供を抱っこしていました)

 

こんなコメントで上位は溢れかえっていたんですね。

 

え?そんなに非難することか?とは思いましたが

世間的にはそうなのかもしれませんね。

 

 

これは男が女に暴力を振るってはいけないという

社会の観念が強く出ているケースで

男が男らしくないとされていることしている例でもあります。

 

もし

駅の改札前で

あるカップルの女が遅刻した男を

「なんで遅刻してんのよ!」と

ビンタしていても

周りの人から見れば

おそらくコメディのように映るでしょう。

 

 

それではこの構図を逆にしてみます。

「男が遅刻した女をビンタする」

 

これを見た通行人は

「強い者が弱い者に暴力を振るう」という光景に映ります。

 

それはあなたの主観の妄想だ!と言われたらどうしようもないですが・・。

 

もしもボックスでもあれば

先ほど紹介した動画で

妻が夫の頭を小突いて全く炎上していない世界にでもいけたら

違いを証明はできるのですが、それはできないので

主観で言わせてもらいます。

 

 

ひと昔の話になりますが

ジャガー夫妻なんて基本的に

完全に前者の例でテレビで笑いをとっていましたよね。

夫が少し生意気な事を言って、プロレスラーのジャガーさんが夫の首を絞める、と。

これプロレスラーの夫が一般人の奥さんの首を絞めていたら

大問題になっているでしょうw

 

 

つまり男女の性のあり方というものに

多様性が認められてきましたが

「男とはこうである」「男とはこうあるべきである」とか

もちろん「女はこうあるべきだ」

というものも

人の心の中に存在しているわけです。

 

え、じゃあ多様性って何なの?ってなりますよね

男なんだから!とか女のくせに!とかで

人の評価が変わってしまうのはおかしくないか?って。

 

それは大きな勘違いです。

確かに性の多様性は広がってきましたが

認められているか、求められているか

というものには

大きな違いがあります。

 

世間一般的な性の嗜好をもつマジョリティからの視点で見ると

 

多様性を認めるということは、

「当事者の外の者から」しかできません。

つまり直接関わることのないものであり、「手にする必要はないもの」

となります。

 

男らしさ・女らしさを求めることは当事者に

直接関わってくるもの=「手にしたいもの」なのです。

 

図で表しますと

 

f:id:nikutubokarubi:20190424013651j:plainつまり男らしさ・女らしさが求められるということは

男らしい男がモテるという「需要」であって

マジョリティの人たちの人生に直接関わってくるものです。

 

対してLGBTに寛容な社会をマジョリティの人たちが

認めているからといって

街中の人が同性愛の人間で満ち溢れることを求めていませんよね。

 

そしてLGBTの方は認める以前に、自身の地位を確保するために

LGBTに寛容な社会を「求める」必要があります。

 

つまり男らしさや女らしさは、性差別とは

次元の違った話になってきます。

 

もし男らしさや女らしさが強要される社会であれば

性的な偏見ではないかという議題にあげることができますが

今の時代、~らしさを法律などで強要されることはありませんよね。

 

対してLGBTの方は法的に認められず

結婚をすることが強制的に不可能であるからこそ

これは差別であり、改良すべき点だと言われるのです。

 

それではなぜ男が法律などで強制されていないのに

男らしくなりたいかというと、

そっちの方が需要がある、つまりモテるからなんですね。

 

 

もちろん、男らしくない男が好きだ!という女性もいますし

二次元限定であれば、BLやレズビアン的な表現が大好きだ!という

人もいます。

 

でもいくら二次元でBLが好きだからといって

その人がホモビを見たり、同性の人と付き合いたいのかと言われたら

それは珍しいでしょう。

 

 

つまり男らしさ・女らしさとは

世間の恋愛的な需要、もしくは人間の指標となるような需要であって

性差別ではないんですね。

欲しいものが欲しい!というのは欲望の一つなので

差別ではありませんし、否定することもできません。

 

髪が臭くて口から異臭のする男よりも

清潔感のあってさわやかな男と一緒にいたいのと変わりません。

 

前から男らしさ女らしさの逆転である

草食系男子や肉食系女子がいますが

それを需要とする人達が増えてきたからでしかありません。

(ていうかそんな人たち大昔からずっといるだろw)

 

というわけで、

男らしくなさい!女らしくありなさい!

と言われたら

それは「社会に迎合しなさい!」という忠告ではありますが

この世の中には色々な需要があるので

男らしくなくたって

女らしくなくたって

そんなのは自分自身の好きなようにすればいいのです。

 

もしそんなことで悩んでいる方がこの記事を見ていたら

そう思っていただきたいです。

どんなあなたでも好きになってくれる誰かがいるはずです。

 

 

【結論】

女を殴るような男は

「弱い者を暴力で制する男」として批判されるし

殴られた女がかわいそうなので炎上する。

 

男を殴るような女は

「生物学的に強いとされている男を制する女」という需要を持っているし

筋力の弱い者に殴られた程度でブチギレする器の小さい男に需要はないので

前者よりも非難されにくい。

 

 

まあ男でも女でも

 

人を殴っちゃいかん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サイレント内定取り消しを食らいかけた人生初の転職活動【畑山】

こんばんは。畑山です。

実に長い月日が経ちましたがいかがお過ごしでしょうか。

自分は様々なことが起こり、疲労困憊です。そのうちの一つがタイトルにもあります通り「転職活動」です。

今回のブログは自分のやってきた転職活動についてサラッと喋ります。

 

泥舟にはもう乗れないと感じて転職活動開始

自分が働いていたのは小さなWeb系の会社です。従業員は30人以下でしょうか、入れ替わりの激しい場所なので性格な人数を把握していません。

仕事はざっくり言えばマネジメント担当です。人数が少ない上に量をこなさなければならない業界だったので、マネジメント以外の事も業務に含まれてました。

また、ひとりひとりのノルマがキツく、残業当たり前、ノルマを下回っていれば怒られるなんて事も。それが真っ当な指摘であれば納得できたのですが、理不尽な事だったのでストレスはかなり溜まりました。

無責任なトップの言いなりになると、クオリティの低いものしか制作できないので当然クライアントは怒り心頭で契約解除になります。もう沈みゆく船には乗れません。

転職活動を始めたのは今年の1月頃です。しかしまだリ●ナビ転職・マイ●ビ転職に登録しただけでした。

 

 

内定先からの連絡が途絶えた2月末

履歴書も職務経歴書もそれなりのクオリティで作って転職活動に臨みました。

大手以外は書類選考が通る確率が高かったので、色んな企業を訪れては面接を行い、二次面接やら最終面接やらをこなしていきました。

就職活動とは全く違う進み具合にビックリしたのを覚えています。就活の頃の自分が酷すぎたんでしょうね。

運よく2月中旬にある企業から内定をいただき、即内定承諾の連絡をしたのですが、入社までの間に不定期で勤務を願い出たところ、

 

突如連絡が途絶えました。

 

御社で3月から働きたかったんだが?内定承諾書は貰っていないんだが?

自分の頭の中には「サイレント内定取り消し」という縁起でもない単語が浮かび上がる。いやいや、「サイレントお祈り」はあったけど「内定取り消し」はヤバい。もう発狂寸前でした。

 

結局その企業から3月になっても連絡が来なかったので、内定取り消しと判断して転職活動をやり直しました。

選考をやり直す前に心の余裕を保つべく少々休暇を取得。これは精神的にも良い選択でした。

なんやかんやで内定をいただき、今はのんびりと働いています。内定は勤務先含め2社でした。他にも選考途中のところがありましたが、内定いただいた瞬間から辞退しました。

 

3月末に連絡が途絶えた企業から4月入社の確認をされる

気分は有頂天の自分の元に、1件のメールが届きました。

 

「入社日は4月1日からでよろしいでしょうか?」

 

送り主はあのサイレント内定取り消し企業です。よろしくねえよ、舐めとんのか。

2月末に自分とは別の人間を採用する予定だったのが、内定辞退されたので急遽自分を正式な内定扱いにしたんじゃないかと推測しています。当然丁重にお断りしました。

 

 

という訳で初めての転職活動は無事終了です。

まさかサイレントで内定取り消しされかけるとは思いませんでした。世の中には真摯な企業ばかりじゃないんですね。コピペでもお祈りメールくれるだけマシなんでしょうか。

未来の顧客となり得る志望者に雑な扱いして良い訳ないと個人的に思うのですが、これ以上言及しても埒が明かないので今日はこれにて失礼いたします。

過去になる人たち

最近だらけ気味の村長です
今日は個人的なメモ書きのようなはなし。

私たちは大なり小なり、子供の頃から今に至るまで、色んな人と知り合ったり、沢山のコミュニティやグループに入る訳じゃないですか。
そこで私の一つの悩みなのですが
過去の人間に会うのが昔からすごく苦手なんですよね。
連れションしたり、バカやったり、あれだけ一緒にいたのになぜだろう。
成人式にも行かなかったですし、友人の結婚式の招待もなんだかすごく嫌な気分がしてくるのです。
まるで私のダメな過去を掘り起こされて、ほじくりまわされるような、そんな人たちのように思えるのです。
そう考えると
「誰か」が嫌いなんじゃなくて
過去の「私」に会うのが嫌なのかもしれない。

高校生の頃からこの癖は少し自覚はしていたのですが、成人して大学を卒業すると、子供の頃より、なおさら過去も出会いも塵のように積もっていくわけじゃないですか。
もちろん生きていけばいくほど
その時の恥も積もっていきます。

最近では、新しいコミュニティに入っても「あぁ、この人たちもいつか過去になってしまうのか」と、思うようになりました。
だから休日は一人でいる時間が、圧倒的に多いです。
病んでいるわけじゃありません。
でも、出会いと別れはいくら努力しても避けられなくて、誰かと会話に花を咲かせるほど、いつかはこの人たちの関係も萎んでいってしまうなと少し悟ってまいます。
とはいえ、逆にその反動なのか
過去のコミュニティでも、一部の人とは、何度だって喜んでこちらから誘って会うことかできます。
当たり前といえば、当たり前なのですが
そういう人間たちに気を許してるのは、なんでだろう。
その人たちが好きだからで片付けられる問題なのか。
少しでもその答えが見出だせたらいいなと思ってます。
単純に、その人たちが好きだから、って理由でも
素敵な結論な気もしますが。